「はいっ、できました!」

いってらっしゃい、と笑顔で付け加えられて、遅刻しそうなくらいギリギリの時間だと言うのを一瞬忘れてしまう。動きを止めてしまった俺に気づいた月子の目が、不思議そうにパチリと瞬いた。
「一樹さん?遅れちゃいますよ?」
「ん、あぁわかってる、けど」
しっかりと結ばれたネクタイに手をやり、何時かの誰かを思い出して笑う。
「上手くなったよなあ、ってな」
俺が暗に告げていることを理解し、同じように思い出したのか、月子は苦笑いを浮かべた。
「もう、だいぶ慣れましたからね」
それもそうか、と頷く。毎日締めるわけじゃないが、今日まで回数はそれなりにこなしているのは事実だ。
不器用ながらも一生懸命にやっている姿を見ていると、幼い日に見た父親の気分をなんとなく理解出来た気がした。当時は父は我慢強いのだと思っていたが、ただ母を愛おしく見ていただけかもしれない。俺と同じように。

「って、一樹さん、ほんとに遅刻しますよ!」

感慨にふける思考に侵入した声に、我に返る。ほらほら、などといいながら、月子は俺の体の向きを変え、背中を押していく。いくらか子供っぽいその仕草に、笑いが零れた。
玄関から追い立てられるように外に踏み出して、光の眩しさに目を眇る。雲一つない春の青空に、昼寝日和になりそうだな、と思う。


「いってらっしゃい!」

再度かけられた送り出す声に、肩越しに振り返る。

「いってきます」

まるで呼応するように、ふわりと風が吹いた。








ある日の朝に。

(ああ、シアワセってのはこんなに暖かいのか、)
100421