「はーな」

おいでおいで、と子供にするように満面の笑みを浮かべた孔明に手招きをされ、素直になんですかと近寄れない程度の警戒心なら、花も持ち合わせていた。

「…なんでしょうか、師匠」
「……おいで、って手招きしてるの、見えない?」
「見えます」
「なら、おいで?」
「ご遠慮します」

だって胡散臭い。
言葉にはしなくとも顔前面に出てしまったらしく、孔明はむむっと顔をしかめて見せた。
「その可愛くない反応はいただけないなぁ」
「だって師匠がそんな顔しているときって、何か絶対にたくらんでますよね?」
一応問いの形を取ったその言葉は、けれども花の中で確信している事実だ。
孔明もそれを知っているようで、それなら、と妥協するように言葉を変える。
「じゃあ手を出して?」
「手、ですか?」
うん、それくらいならいいでしょう、と困ったような顔で言われてしまえば、少し断りづらい。先ほどの言葉は言いすぎだっただろうかと内心で反省し、花はわかりましたと片手を差し出す。

「うーん…まだまだ、だねぇ」

「え?」
言葉と同時、差し出した手は容赦なく強い力で引っ張られ、それに伴って体も力の方向へと傾く。一歩踏み出して堪える前に、花は孔明に抱きしめられる形となっていた。
「し、ししょ…!」
反射的に手を突き出し距離をとろうとするが、ぎゅうっと力を込めた成人男性の力に女子高生の力が敵うはずなどなく。
「師匠、あのっ!」
「うん、ちょっとこのまま黙って」
苦言なら後で山と言っていいから、と付け足された言葉に、花は少し首を傾げた。傾げた所で孔明の顔は死角になっていて、彼がどんな顔をしているのかはわからない。けれども言葉に滲んでいた感情は、花の思い違いでなければ――
「定期的に、さ」
少しの沈黙の後、苦いものを含んだような声音が耳朶を震わす。
息を吐く音さえ聞こえる距離で、聞く低い声に少し緊張する。どきどきと速度を上げた心音が、孔明に伝わるのではないかとそれだけが花の思考を占めた。

「君がちゃんと、此処に居ることを確かめておかないと、落ち着かない」

だからその言葉の意味を理解するのに少し間が空いた。
「…私は、此処に居ますよ?」
意味がわからなくても、恐らく孔明が望んでいるだろう言葉を紡ぐ。うん、と笑いを含んだ声が答えた。
「そうだよね、君は、此処に居る。だけど、いつかの日みたいに……君はまた消えちゃうんじゃないかってさ、思わない日は、ないんだよ」
小さな頃に出会った、その記憶が孔明の根幹を成している。
故に、『彼女』が消えたあの瞬間は鮮明に記憶に根付いていた。
「君が帰る方法をなくしたのも…帰る場所ではなく、此処を選んだことも、知っているのにね。それでも、君が帰る場所は変わらずに君を待っているかもしれない」
もしもこれで手段があれば、君は帰るんじゃないか。
帰りたくなったら帰ればいいと言ったのは、誰だったのかな、と自分を責めるように、孔明は呟く。

「師匠」

なにか言葉を期待しているわけではないのかもしれない、と思いはしたが、逡巡する間もなく、花は口を開いていた。


「私の帰る場所は、此処です」

未練がないとは言い切れない。
きっと手段があれば、また気持ちは揺れるのだろう。
それでも。

「師匠が居る場所が、私の帰る場所です」

だから、と続けて、花はやんわりと孔明の腕から逃れる。力強い腕の拘束はいつの間にか解けていた。

「だからもしも私がふらふらってどこかいきそうになっても、師匠は一言言ってくれるだけでいいですよ」

おいで、と。

さっきみたいに、いってください。


「――さっきは、来なかったのに?」
ふっと笑みを零した孔明は、責めるような口調でそう問うた。
うっと言葉に詰まる花に、けれど孔明はそれ以上の追求はせずに言葉を継ぐ。
「でも、そうだね」
君がそういうのなら。

「ボクは『此処』で、待ってるよ」








幸せの帰る場所



100409