ふと顔をあげると、机に向かう孔明の姿がある。思案するように時々手を止めながら、筆を進めている。何を書いているかは、わからないし想像もできない。
ただ、師の姿を探すことなく視認できるのが、不思議な気がした。

「花、仕分けは終わったの?」
「……へ、あっ、いえ…!」
顔も上げない孔明からかけられた言葉に、慌てて書簡の山に視線を戻す。
孔明のスパルタ教育で、この世界の最低限の文字を二日で習得させられた花の仕事は、書簡の山を内容によって仕分けることだった。
簡単な仕事だよ、と笑顔で告げた孔明の言葉とその時の彼の無駄な威圧感は忘れたくても忘れられないものだった。

「…ボクの顔に何かついてた?」

視線は戻しながらも作業速度が落ちたことに気づいたのだろう、孔明は一息ついてから、自らも手を止めて問う。花はうっと呻いて、そろそろと顔をあげる。呆れたように片眉を下げた師の顔に、ますます自身の表情情けないものになるのを自覚した。
「凝視してたことは、その、…ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。――それじゃないでしょ、君が言いたいのは」
「……」
図星を指されて、花は諦めたように息をつく。この人が聡いのか、自分が解りやすいのか。多分両方だよなあと思いながら、視線は僅かにずらして答える。
「師匠が…ここにいるの、変な感じだな、と思ってました」
「…………それは、ボクに対する遠回しな厭味?不平不満の類?」
「えっ!?いえ、そういうわけじゃなくて!」
ただブラウン管を通して見る有名人のような、名前はよくしっているのに実際に側にその人がいると違和感しかない、というか。
奇妙に現実味を帯びないような気がするのだ。
けれどその感覚を言葉に変えることは難しく、花はううんと唸ってからぽつりと問うた。

「師匠は、消えないですよね?」

神出鬼没なイメージしかないから、主を定めたと聞いても不安が残る。その僅かな不安を消したくて問うたのに、孔明は意外そうに目を見開き、それからすっと目を細め答えを返す。



「消えないよ。ボクは、ね」



まるで、代わりに誰か別の人間が消えるかのような、口ぶりで。

「変なこと、聞きましたね」

すみません、と続けたそれらの言葉は心なしか掠れてしまったような気がしたけれど、そうだよ、と答えた孔明の表情は何も気づかなかったかのような常と変わらぬものだった。








いなくなるのはだぁれ?


(まるで私が違う世界に帰ることを知ってる、みたい、に)



100402